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北陸新幹線 木島平観光 飯山市観光 野沢温泉観光 周辺観光

木島平周辺観光には、沢山の観光場所がありますが、以下の場所について特に興味を持っていただくと楽しい記念になるものと思います。
  高野辰之記念館   信州の和算と算額   古民家郷の家
北陸新幹線の開通に伴い長野県信州奥信濃の観光が変わります。東京約2時間、金沢約1時間と中間の観光地としてより近く、短時間でお越しいただける観光地に成りました。木島平、野沢温泉、飯山周辺観光のベース宿泊施設としてパノラマランド木島平をお勧めいたします。
木島平の眺望のよい場所にあり、周辺の飯山市、野沢温泉の観光に便利な場所として多くの皆様にご利用いただいております。故郷、春の小川などの唱歌で有名な高野辰之記念館にも20分、また晩年をすごされた野沢温泉にも30分、また斑尾高原に30分カヤの平高原に30分と近い場所にあります。
木島平の歴史資料館にも近く、世界でも注目され始めているSANGAKU(サンガク)算額についての興味深い資料が展示されております。木島平観光協会も近くにあります。

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高野辰之記念館と唱歌ふるさとの山々の風景 原風景と里山 文学探訪

■文学探訪
木島平周辺には、国文学者、高野辰之記念館、作曲家中野晋平記念館や各美術館、高橋まゆみ人形館などがあります。車で20分の場所にある高野辰之記念館、高橋まゆみ人形館へはお時間があったら足を運んでいただくと里山の良さを更に深めていただけると思います。

高野辰之は、『兎追ひしかの山、小鮒釣りしかの川』などの唱歌を多くおくりだし、各地の学校校歌も多いので、皆様のご出身の学校校歌も高野辰之作詞のものかもしれませんね。
野沢温泉にも高野辰之記念おぼろ月夜の館があり、斑山(はんざん)文庫収蔵品が展示されています。

辰之の父、高野仲右衛門は非常に礼儀正しく、自分の家の近くで訪れる客の足音を聞くと、常に用意してある羽織を来て玄関前に正座して丁寧に来客を迎え、裃の右衛門とよばれるほどの人物でした。小布施の高井鴻山にて通い弟子として学び地域に貢献した人物です。

辰之は父仲右衛門が創設に尽力した永江小学校に通い、卒業後に飯山町の高等小学校に7キロの道を自分より大きな風呂敷包を背負い、腰に予備の草履をつけて通ったそうです。辰之のこの後ろ姿を見た父仲右衛門は、自身が小布施迄農業をしながら、高井鴻山の元に通った頃を思い出していたかもしれませんね。

辰之の通った道に『かの山』、『かの川』があります。一説では東京の川をモデルとしたとも言われていますが、実際の記念館から見える山々や近くの小川を見ると、ここがその地で有り、兎を追った山や小鮒を釣った川があることが理解できると思います。更にこの道を飯山町に歩くと当時の菜の花畑が見えるような丘があり(現在の道路脇)ます。

当時の菜の花は、現在飯山市で毎年開催されている菜の花と違いました。現在の飯山市の菜の花は野沢菜ですが、当時は菜種油の菜の花であったと考えられます。
一面黄色の菜の花の畑の中を歩き、その先には千曲川が流れる光景を見ていたことが察せられます。当時は、きっと素晴らしい黄色一色の世界であったろうと思われます。
現在この道にある橋には、故郷の一節になっている柱を叩くと音が奏でられます。辰之が通ったこの道、かの山、かの川を眺める場所にありますので、当時の景色を辰之と同じ目線で見ることができます。

15歳 母校永江小学校代用教員として勤務
21歳 長野県尋常師範学校卒
28歳 文部省属官
35歳 紅葉
36歳 3月 春が来た
12月春の小川
38歳 故郷、朧月夜
近松門左衛門全集や江戸文学史などの著書も多い 


■まんが、日本むかし話の常田富士男さんは木島平のご出身であり、教育委員会手動の元、再生された古民家(郷の家)で活動しています。
郷の家は、馬曲地区にある古民家の柱や梁などの主要な構造材をそのまま利用して囲炉裏や土間などを再現し、失われつつある農民の生活様式を今に伝える施設です。村に伝わる伝説や昔話を語り、住民の舞台発表などを通じ、地域の情報発信や農村文化の継承を目的としています。
昔ながらの土間での土釜、昔のままの囲炉裏、タイムスリップした時間は、老夫婦の皆様には懐かしく、また子供たちには珍しく映るかも知れませんが、年に数回開催される語り部の会は、きっとあのテレビの様な、『ほんわか』した、時が流れるのではないでしょうか。

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算額8枚日本が世界より先駆け江戸時代に発展した数学、和算の木島平

■算額と和算
木島平には算額というものが神社などに奉納されています。全国で約950発見されている算額のうち8個がこの木島平にあり、同じ奉納者が隣接するお堂や神社に奉納したものを加えると13もの算額が存在しています。これは特に珍しく、山岳部のこの狭い扇状地の山間部にあるものとしてはWikipediaでも珍しいものと記載されています。実際に算額が奉納された当時の和算の発展は目覚ましいもので、明治期に洋算に変わる迄は、独自の発展と発見をしていました。また洋算に変わる時代には和算師がその指導を行い、新しく設立される学校の初代校長に就任してる人が数多くいらっしゃいます。

和算がどんなものか、日本独自に発展した和算師の偉業がどんなものかを先ず知っていただき、遠い過去に思いを馳せその地、その奉納の実物や足跡を訪れて観てはいかがでしょうか。観光には一見、観るだけの観光が一般的ですが、遠い過去に思いを馳せ、先人達の足跡や歴史的探訪の旅はロマン溢れる思い出になるだけで無く、知らなかった和算に出会うことで今迄興味も湧かなかった数学や算数、そろばんなどにも初めて知る意味や使い方に発展するかもしれません。

木島平は狭い地区に全国でも珍しいと言われる程の8個の算額があり、近隣を含めると15もの算額が奉納されています。またその流派も主流の関流、反主流の最上流があります。 流派は多数存在しましたが木島平では関流、最上流、宮城流が盛んに交流したことで他府県と比べて活発に成ったのではないかとも考えられます。木島平の和算師については、樋口和雄先生の『北信州木島平の和算風景』に詳しい記載があります。(🔴印は木島平内の算額)
●1800年 木島平往郷 水穂神社 🔴
●1809年 中野市田上 観音堂 2枚
●1811年 木島平中村 一川谷大元神社 🔴
●1829年 木島平往郷 水穂神社 🔴
●1843年 飯山下木島 鳥出神社
●1845年 木島平上木島 天然寺観音堂 🔴
●1847年 飯山下木島 鳥出神社
●1849年 山ノ内 渋薬師堂
●1852年 木島平西小路 満昌院 🔴
●1868年 高山村山田温泉 薬師堂
●1884年 野沢温泉村 湯沢神社
●1888年 木島平村原大沢 天満宮 🔴
●1888年 同上 🔴
●1888年 同上 🔴
和算を知っていただく為には、算聖とあがめられ日本数学史上最高の英雄的人物とされた関孝和についてから知っていただきたいと存じます。

■関孝和(1642ー1708)は江戸時代の和算家で、孝和没後は弟子達により学流が目覚ましく発展し、主流の関流として歴史の中に大きな功績を残しています。関孝和は吉田光由(よしだみつよし)の塵刧記(江戸時代初期の数学書=じんこうき--命数法(単位)や掛け算九九などが記載されている--)でネズミ算を学び、1674年に『発微算法』を著し、筆算による代数の計算法を発明して、和算が高等数学として発展するための基礎を作った。世界で最も早い時期に行列式・終結式(英語版)の概念を提案したことはよく知られています。
さて、和算がどんなに凄いのかを簡単にご紹介すると下記のようになります。
◾︎1674年 世界で初めて行列式の概念を提案 ライプニッツの1678年の発見より4年早く発見しています。
◾︎1681年 
円周率の近似値を正131072角計を使い、少数第11迄正確に求めていたり、暦の作成で必要になったときに少数以下第16位迄を正確に求めており、世界に先駆けて200年も前に計算していたことになります。(世界ではエイトケンΔ2乗加速法で再発見されるのは1876年で約200年後)、更ににベイヌール数をヤコブベイヌールより1年前の1712発見していたことも有名です。
すでにここで何だろうと思われる方も多いと思いますが、数列の収束を速める為のアルゴリズムの一つであるのがエイトケンΔ2乗加速法です。ベイヌール数とは,連続する整数のベキ乗和を定式化する際の展開係数。

■建部賢弘(たけべかたひろ1664-1739) 孝和門人であった建部賢弘が累遍増約術を適用し、円周率を41桁まで正しく求め、同じ方法をリチャードソン補外として提案するのは1910年ごろである。
数値的に冪級数展開し正しい係数に辿り着いている(『綴術算経』(1722年(享保7年))。これは逆三角関数 arcsin2 のテイラー展開に相当するが、円弧の長さを計算するアルゴリズムという方が実態に近く、後に不完全な論法ながら、この数値的結果を正当化した。これは和算初の冪級数展開。ちなみに同じ結果をレオンハルト・オイラーが得たのはその15年後である。また同じ1722年に京阪の和算家鎌田俊清が『宅間流円理』で sin, arcsin の冪級数展開を発表しているが、両者の影響関係は不明である。世界に先駆けて15年も前に利用していたことも凄いですね。
上記の記載以外にも多くの門人や弟子が素晴らしい業績を残しています。

簡単に説明しても世界に先駆けて独自の発展をした和算ですが、では何故世界に知られなかったのかというと、当時日本は鎖国状態の時代でした。其の理由から世界の数学に影響を当てることがなかったと言えます。
但し、鎖国の中でも吉宗の命により、暦の西洋の天文暦算を解いた清朝の書物から西洋数学の影響を受けることとなります。ではここでまた疑問です。鎖国にある中どうして吉宗が命を出したかですが、これは関流建賢弘の弟子中根元圭(なかねげんけい)が天文書など有用な書に限り洋書の輸入を認めるよう吉宗に進言したことから実現しています、但し当時はオランダ語をなど洋語を読めるものがいなく、中国からの翻訳された書を輸入していたとされています。

ロマンを感じませんか。和算の歴史の知識を得てから木島平の和算家の足跡を辿ってみませんか。

■ここで関流の関孝和に子孫は、、? (関新七郎久之)
残念ながらこの偉業を成した関孝和の家は、養子新七郎久之の時にある事件(甲府城内御金紛失御仕置一件)で大岡忠則の取り調べを受け、1735年8月5日重追放となり動産没収となりお家断絶となります。孝和は1706年11月4日に隠居し1708年に没していますので、この関孝和の書物は、全て没収されていますのでどこにいったかは、現代でもまだ謎となっています。では多くの関流の著書はどこに? 仮説ですが、実は定かではないのですが新七郎久之の処分した建部賢弘の遠縁の建部広充から賢弘に渡ったか、または、同じ処分担当にあった松前広隆から山路主住に渡ったとされています。 紛失事件そのものは人間臭く当番の富田伝兵衛が賭け事に関与しているすきを観て次郎兵衛門が犯行に及ぶというもので、その責任での重追放でした。但し、当時の関八州、甲斐、駿河、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路からの追放でしたのでその後の行方は不明となっています。
さて、木島平の和算を知っていただく為のもうひとつ反主流派の最上流(さいじょうりゅう)について知っていただきたいのですが、最上流にも逸話があります。
■藤田 貞資(ふじたさだすけ1734-1807) 門人の神谷定令と共に主著『精要算法』を巡って会田安明と論争した。
教育にすぐれ、問題集『精要算法』を著して世を轟かせた。当時の算術は、遺題継承、算額奉納などによって流行したが、実用を遠く離れた問題や解く甲斐のない物もありそれを批判したのがこの著で、「今の算数に用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり。」という一言が世を驚かせたのです。現代の批判本ですよね。有益なものの書は「無用の無用」を排除するために良い問題集となり良質な教科書として、数学者の間で一世を風靡した。
当時、東北の会田安明は、藤田貞資の門に入ろうと中西流の算術を学び、旗本の養子となり鈴木彦助として御家人株を買い、関流四伝の藤田貞資に神谷定令(ていれい)の紹介で入門しようとするが、入門の条件に算額の記載の訂正を求められた事から対立し、後に最上流を立ち上げました。この後20年にも及ぶ関流と最上流の論争が続くことになり、最上流は多くの著書を残し関流を圧倒しました。
この最上流に影響を受けた有名人が伊能忠敬です。測量隊の中には最上流の門人が多く、会田とは利根川治水事業で知り合ったと思われます。伊能忠敬よりも100年も前に吉宗の命により作成されていたことも最近原図が発見されています。伊能忠敬の測量については、各地の和算師が協力した事は事実で伊能忠敬の測量隊が信濃地方を通過する頃、松代藩では実測図を作るよう命じた記録が残っています。伊能忠敬の和算術は正確なところは不明ですが、会田安明との出会いや測量隊にその門人がいることを考慮すると最上流を学んでいたことが推測できます。

さて、木島平が何故和算の里になったのか、主流派の関流、反主流派の最上流の20年位にも及ぶ論争が発端となり各地に発展したものと思われます。近隣鬼無里村には、寺島宗伴(1794~1884)鬼無里が生んだ和算家がおり、幼少の頃に宮城流算法を学び、その後松代藩の数学者池田定見から町見術(測量)、町田正記から最上流の免状を得、その生涯を通じて多くの門人を教えました。その門人の数1000ほどだそうです。

木島平村の和算は、これらの条件や地形的なものから発展したのではないかとも考えられます。木島平は扇状地形ですのでこの地形にあった胸掛け式の水車が多く存在したと考えられます。実際に明治までは木島平村内には10数個の水車があったと記録されています。和算の知識がなければ水車は動かなかったことが推測され、多くの水車を多くの和算師が大工に指示していたことも推測されます。

まずは、これらの知識を元に資料館に出向いて実際の木島平の和算師の名前と神社などに奉納されている算額のレプリカをご覧になってください。
遠く昔のこの狭地で多くの和算家が実在し生活に活用していたことは、とても興味深く面白いものと思います。

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